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蜜柑の花

another of HEART

 

 小花こはなと初めて会ったのは、去年の秋。この家の蜜柑の木の前だった。
 よく手入れのされた庭の低い塀から、溢れている形の良い大きな蜜柑は、綺麗なオレンジ色で、如何にも取ってください。と、言わんばかりの魅力的な存在だった。ちぎり取った蜜柑と同じ色の空の下、甘酸っぱい香りと共に、秋風はそっと小花を連れてきた。その可憐な佇まいは、今もこうして庭の手入れをしながらオレの目の前に存在している。

「綺麗に咲いてくれて・・・有難う」

 育てた花を撫でながら呟く。彼女の綺麗な黒髪を、少し冷たくなった秋風が躍らせている。白く柔らかそうな肌にまとわりついたその髪を、そっと耳にかけながら、静かに可愛い声で呟いていた。

「あのさ・・・そろそろ家入ったほうが・・いいんじゃ・・?」

 正直、女の子の体に触るのは初めてじゃない。本来の高校生らしからぬ経験も何度かある。なのに、なんだよ・・・情けない。その細く、少しでも強く握り締めたら壊れてしまいそうなその肩に、触れようとするこの手は、不覚にも震えている。彼女の肩は、その秘めた可愛い下心に気づいてか、逃げるように前へ傾いていくのが分かった。まるで、地面に引っ張られているみたいに。

「お、おいっ。どうした?」

 それは、逃げたのではなく倒れたのだ。そう気づいた青磁の視界から一瞬にして彼女は、消えた。その硬い地面の上で、白いカーディガンの左胸を強く掴み、痛みに耐えている。
 さっきまでとは明らかに違うその荒い息遣いと白い顔は、冷や汗を流し歪ませている。発作だ。慌てて、彼女の萎縮した体を楽な体勢へと起こし、こちらへ抱き寄せようと手を伸ばす。が、できない。手が彼女の体を平然とすり抜けていく。必死に何度も何度も同じ動作を繰り返す。が、その結果は変わらなかった。変わっていくのは、蒼白と変色していく小花の顔色だけだ。女の体を抱き寄せるなんて、当たり前のように出来ていた動作が・・・出来ない。そんな役立たずの両手を凝視すると太陽の光が当たり、レンズのように彼女を透視して見せた。はがゆい気持ちが一層青磁の心に動揺と苛立ちを生んだ。
 手が震えている。そんな手を力強く握り締め、焦燥感を必死に握り潰していく。
 そうだ、「ちょっと待ってろ」
 言葉と同時に立ち上がりながら踵を返し、大通りに走り始める。青磁には、ただただ、彼女を救いたいという本能だけが魂を支配し動かしていた。
 それでも、大通りに着いた青磁を待っていたのは残酷な現実だけだった。透き通っている自分の体・・・。どんなに必死に助けを求めても、それに答える人は無く、目があうのは、そこにいる犬猫くらいだ・・・。こんなに大勢の人がいるのに・・・こんなに大声で叫んでいるのに。誰も気付かず自分をすり抜けていく。

「誰か、頼むっ。誰かオレの声が聞こえないのか? 大変なんだっ。あの子が死にそうなんだっ」

 世界が自分を無視しているみたいだ・・・。今まで当然と存在していた自分が・・・もうない。人に伝える。という、当たり前な意思表示が出来ない。あの子一人抱き抱えることも・・・。世界はオレを見捨てたのか・・・? 
 「ハッ」 青磁は、思わず嘆息する。
 ・・・仕方がない。確かにオレは、この世界に何の貢献もしていなかった。好き勝手やって、その場のノリの約束なんて平気で破って、人も物も平気で傷つけて・・・その後のことなんて知らない。都合の良い快楽だけ求め続けるだけで、面倒なことから逃げてばかりだった。そういうヤツだった。そんなオレに自分の存在意義なんて・・・人のあり方なんて、あるはずもない。
 でも、アイツは・・・! いつも楽しそうにオレの話を聞いて笑う彼女は違う。行きたかった学校も、放課後の寄り道も、オシャレや、買い物。やりたいことも、ずっと我慢してずっと頑張ってきたんだ。泣き言もいわないで、そんな自分を受け入れ戦ってきたんだ。そんな自分を産み落としたこの世界もずっと愛してきたんだよ。だから、頼むよっ。もう、あの子を苦しめないでくれよ。

「たのむよ・・・だれか、あの子を助けてくれよ」

 この強大な世界は、そんな懸命なオレの絶叫を、遠くて近い所から酷薄な笑みを浮かべ、あざ笑って見ているに違いない。力尽き、うな垂れ、しゃがみ込む青磁の声はそれでも、そんな世界に懇願せずにはいられない。こんな、役立たずな自分が情けなくて、はがゆくて仕方が無かった。今まで何だったのか・・・お世辞にも誠実とは言えないが、培ってきたこの17年は・・・。
 頼むよ・・・誰か・・・。

「沢田青磁」

 そんな、青磁のうな垂れていた頭上から聞こえる優しく包むような暖かい風圧と、聞き覚えのある声。ローファーの着地音と共に、青磁の肩を力強く引き寄せたのは、セーラー服の上に赤いエプロンを掛けた女子高生だった。

「春子先輩・・・」
「小花ちゃん。大丈夫だよ。お母さんが見つけて、今、主治医に見てもらっているからっ」

 息を切らしながらもハキハキと、溌剌とした表情で朗報を告げた彼女は、部屋戻ろう。そう言って、安堵して崩れる青磁の肩を、今度は優しく撫でた。




「診察終わったよ」

 青磁は、部屋の窓に背を向け、ベランダでしゃがみ込んでいる。
 その窓を当然のごとくすり抜けながら、膝頭に乗っている青磁の顔を覗き込む。

「あれぇ? 泣いてたのかな? 僕ちゃんはぁ?」
「ば、誰が泣くかっ」

 そんな言葉に、垂れた頭を勢い良く起こし反発する青磁。でも、ヤバかった。もし彼女が来るのが少しでも遅かったら・・・・。 怖かった。すごく・・・怖かった。残される者の気持ち。大切な人間が一瞬にして自分の前から姿を消す。それは、形は無いのに、その人の気配は空気となって確かに存在する。欲しいのに掴めない。そんな感覚。・・・そんなの拷問だ。そして自分もそんな気持ちを誰かに経験させている。オレは、被害者ではなく加害者だ・・・。衣服、整えたから中入ろう。小さく体を萎縮し震える肩に手を置き、そう告げる彼女の声は優しく、青磁を安心させるトーンだった。
 初めて入る。柔らかな色彩に囲まれたあの子の部屋。あの子そのものだと思った。あの子の空気。
 小花の存在を空気でも感じる。静かに眠り、確かに存在するあの子の姿に目線を合わせた。そんな部屋は目覚めぬ主とそんな青磁を優しく見守っている。
 ベッドの傍には、聴診器を首に掛けた男性が一人、小花の前髪を軽くずらし、おでこにそっと触れている。この世界に、もう存在しないはずの青磁の心臓がドクンと大きく音を立てた。オレが触れられないのに、なんで、お前が触れるんだよ。医者なのだから当然な動作だとしても、理屈じゃない焦燥感と嫉妬が陽炎のように青磁の心を怪しく揺らし、こんな若い医者で大丈夫なのか? と、余計な先入観を生み出した。それが、顔に出ていたのか・・・ 。

「大丈夫だよ・・・アイツ優秀だから」

 どきっとした。先輩はどうやら人の感情を読み取るのが上手いらしい。涙ぐむ小花の母に、厳しい病状の説明をしている医者を見つめながら話す先輩は、いつもの溌剌とした感じとはまた違っていた。

「アイツ。昔バイトをしていた本屋の常連だったの。ランドセル背負ってさぁ、めちゃくちゃ生意気なガキだったけど・・いつの間にか、私の歳追い越して、立派なお医者様になっちゃったよ・・・」

 その、本屋には、凄く御世話になったらしく、享年16歳という生涯の中で一番の思い出だと言っていた。先輩は、その赤いエプロンのポケットに両手を入れながら、自分には一切気づかない彼を、優しく、そしてなんだか少し寂しそうに見守っていた。時間の切れた者と、時間と繋がっている者。

 ベッドの横にしゃがみ込み、じっと顔を見つめる。こんな近くでこの子の顔を見るのは初めてだ。そう意識した途端、体温を持たない筈の体が熱く高揚し、またドクドクと音を立てた。 右手でそっと頬に触れてみる。前髪に隠れたおでこ・・長い黒髪・・長い睫毛、形のいい小さな唇。白く柔らかいはずの頬・・・。
 ・・何も感じない・・・彼女の温もりも・・・感覚も・・・すり抜ける。
 まるでこの子がいないみたいだ。

「当たり前って、当たり前じゃないんだよ」

 始めて理解した。あの子の言葉。
 あの日、オレが死ぬ何時間か前の帰り道、盗んだバイクの音と共に聞いたあの子の言葉だ。そのときは、意味など考えず流してしまったけど・・・今なら分かる。眠っている小花の手を握りながら泣いているこの子の母親は、葬式が終わってたった一人泣いている母を思い起こさせた。女手一つで育ててくれた母。朝から晩まで働いて、いつも決まった服を着て髪の毛なんか束ねているだけで、幼心にも友達の母親と比べたこともあった。いつの間にか、そんな母を毛嫌いし、平気で『死ね』と発した言葉が最後の言葉。その日の夕方、発した言葉が、そのまま自分に返ってきた。オレを、必死に守ってくれたその背中は、とても小さくて、温かく包んでくれたその手は、酷くあかぎれていた。

『ごめんなさい』『ありがとう』

 もう、二度と言えなくなってしまった。一番肝心な言葉。いつの間にか慣れた狡さは、いつでも出来ると言い聞かせ、向き合うことを面倒にさせた。自分に都合の良い事だけの甘ったれた生活も、何気ない風の感触も、軽い男女関係も、そして、人間は、『当たり前』ということの有難さにこれほどまでにも鈍感で冷たく、愚かで無知なことも。『ごめんなさい』と『ありがとう』そして、『好き』という言葉の愛おしさも。死んだ今、生きていた実感に気づかされる。そんな罪深い自分にも・・・。そう・・肝心なことは・・・失ってから気づく・・・。
 初めて会った去年の秋。優しく微笑み、『有難う』と蜜柑を撫でてから、実を切り離しオレに渡したあの子。その日から、蜜柑の木の前を通るたびに目が合うようになったあの子とは、別に付き合っていたわけではなかったけど・・・・。
 でも、どこか惹かれていたんだ。
 本当は、言いたかった。君に伝えたかった。君への気持ち。
 彼女の眠る頬に一粒の雫が落ちる。それは別れの清冽だった。
 その瞬間、青磁の背中から大きく真っ白な両翼が生まれた。
 きっと素敵な人生になるよ。君はちゃんと生きることの意味と大切さを知っている子だから。これからいっぱい走って、泣いて笑って。そして、恋をするんだ。
 ・・・心配しないで。大丈夫・・・オレが全部持っていくから。

「今なら、心に語りかけることできるよ・・・言わなくていいの?」
「うん。いいんだ・・・」

 できない。してはいけない。そっか。と呟いた先輩の、あの寂しい表情の意味が今なら分かる。この世界には、もう『あり得無い自分』の、この気持ちを、彼女に残してはいけない。君は、これからの時間を生きる人だから。なんの特徴の無い無味無臭なオレの人生だったけど、それでも一つだけ・・・。

 「君にもらった蜜柑と、その甘酸っぱい香りをもらったから、いい人生だったって思えるよ。可憐で優しく、そして慈しむ生き方をする、笑顔の君が・・・・」

 ・・・好きだよ。
 残せない気持ちをそっと閉じ、小花の形のいい唇にそっとキスをする。
 真っ白な両翼から綺麗な閃光が解き放たれた。

「うちの蜜柑って、なぜか毎年実は生らないの。夏から冬の間長い時間かけて少しずつ実を育てる準備をするから、きっと疲れちゃうんだね・・・、この実はその努力の証だから・・有難うっていうの。・・・再来年も・・見られればいいな?」
「じゃあ、来年オレが蜜柑を咲かせてやるよっ」

 何言ってんだ! そんなの、出来るわけない。分かっていたけど、彼女の切なそうな顔をどうしても笑顔にしたかった。ただ、笑ってほしかった。だから、その言葉に一瞬きょとんと目を丸くした後、くすり。と笑って、『有難う』と、嬉しそうに笑った彼女を、今でもよく覚えている。


「・・・蜜柑の香り」

窓から少し冷たい秋風が吹くこの部屋に、静かで可愛い声がポツリと響いた。
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