破顔

モドル | ススム | モクジ
神様見ていますか?
 
真っ赤な絵の具を踏み潰したように、ジュワリと鮮血がゆっくり床に広がっていきます。
 気休めの抵抗の果てに崩したバランスは、私をベッドから床へと勢いに任せて落としていったようです・・・・。よくは覚えていませんが。
「あ・・うぅ・・」
 いた・・い・・・痛い。胸が痛い。取り戻した意識は、同時に刺された胸の痛みをも取り戻してしまったようで、息を吸うたびに胸に針のような痛みが刺さります。
 止まる事を知らない私の血は、私の目の前で、私の中から静かに、そして確実にドクドクと流れていきます。
 かすむ目には、リビングのタンスをなにやら乱雑に物色している人の身じろぎや、焦りの熱が映し取れます。

 おかあさん。おかあさん。
 
 心の中でそう呼ばずにはおれません。
 何とかして声を出さなければ・・・助けを求めなければ・・・と、神経の通っていない、重く鉛のような脚を動かしてみます。
「う・・・ごい・・・て」
 分かってはいましたが、私の脚は私の脚であって私の脚ではありません。その行為は、残酷にもそれを再確認させるだけの行為となってしまいました。でも、やらないよりはマシです。結果は分かっていても・・・。

『カチッ』
 私の背中から、壁に飾ってある時計の音が聞こえます。
 振り向けないので、今が何時何分なのかは分かりませんが、オレンジ色の光が足側にある窓から入ってきます。きっともう夕方でしょう。彼と私の影を、黒く長く伸ばしています。
 彼の手が止まります。何かを見つけたようです。でも、それは・・・。
 お願いです。それだけは持っていかないでください。それは、お母さんさんが大切に貯めていたものです。
「だ・・・めぇ」
 言葉が続きません。それでも精一杯の声で懇願します。力いっぱい伸ばした手は、震えるばかりで彼の足元まで届きません。
 笑っています。笑っています。だんだんと彼の顔がはっきりと見えてきます。笑顔でいます。笑っています。それはそれは嬉しそうに笑っています。
 
 彼は、私を一蹴り、二蹴りしていきます。
 外では、近々迫っている町長選の選挙カーが、遠くから「よろしくお願いします」と、そちらも必死に懇願の声を震え響かせています。外はとても賑やかです。三蹴り。四蹴り。その人はまるで機械のようです。胸の痛みはお腹の痛みに助けられて感じません。オレンジ色の夕日が益々二人の影を黒く長くして、蹴られるたびにその影も動きます。
 この部屋には、単発な呻く声と、繰り返される無機質な衝撃音だけが無機質に響いています。

 意識が朦朧としていきます。

 おかあさん。私を生んでから、その人生全てを私に捧げてきてくれたおかあさん。私は、生まれてきて良かったのでしょうか? 神様にもこの世にも貴方にも、愛されていたのでしょうか?
 生まれつき自由の利かない体に生まれた私は、人にしてもらうばかりで、人にしてあげられることがありません。起き上がるのだって、おかあさん、貴方が必要で、歩くのだって貴方に支えてもらわなければバランスも取れません。おかあさん。貴方がいなければ私は生きてはいけません。でも、貴方は私がいなくても生きていけます。だから、せめて笑顔でいようと心に決めました。いつだったか、「笑顔は人に笑顔と幸せを運んでくれる」と、本に書いてあったからです。こんな私でも、笑顔でいれば疲れきったおかあさんの顔に笑顔を与えてあげられると思ったからです。それが、私がおかあさんに出来る唯一の事だと。
 私は、笑い続けました。どんなに周りから白い目で見られたときも。疲れがおかあさんを弱くしたときも。仕方ありません。おかあさんも人間です。八つ当たりされても我慢できます。疲れが取れれば叩いた頬をきちんと撫でてくれます。

『どん』
 最後の蹴りが私のお腹に衝撃を与えました。もうほとんど抵抗する力も、助けを求める声も、体内に流れる血液も、もう残ってはいません。
「あ・・・ぁ」
 それでも人間の生命力は強かです。掠れてはいますが、音が出ました。意外にも私は強かったのだと新しい自分を発見してしまいました。こんなときでも、自分と向き合えるものなのですね。
「はッ」そう吐き捨てて、彼はこの家を出て行きます。玄関へと向かっていく靴音が廊下に響きます。
「お願い、おかあさん。帰ってきて欲しいけど、でも今は帰ってこないで」
 まだ、胸に血液が残っているのでしょうか・・・。そう願ってなりません。私はまだ人間をやっていることが出来ているようです。

『ボーン』
 まるで、お母さんが帰ってきたことを教えてくれたかのように時計が鳴りました。一度鳴ったので、分針は30分を指したところでしょう。玄関先でお母さんの気配がします。良かったです。彼と出くわさなかったようです。安心したら、息をするのも少し楽になってきました。小まめに上下していた肩は今やほとんど動きません。『バシャ』
ビニールの買い物袋が床にストンと崩れ落ちました。私の口元に林檎か転がってきます。林檎は私の大好きな果物です。おかあさんのストッキングの足元が見えます。その脚は、オレンジ色に染まって動きません。動くのは玄関先の廊下まで伸びている真っ黒な影だけです。
「佳代」
 おかあさんの声です。私を呼んでいます。今すぐ返事をしたいのだけれど、声が出ません。何とかお腹に力を入れてみるものの、もう音さえも出てくれません。顔が見たいです。私にやさしく微笑みかけてくれる顔が見たいです。でも、私はいつも辛く疲れた顔ばかりさせていました。いくら私が笑っても、いつしか、お母さんは笑ってはくれなくなりました。血色の悪い顔にしわが増えていきました。私は、もうおかあさんにしてやれることはなくなってしまった瞬間でした。それでも、おかあさんは、確かに私を愛してくれました。確かな証拠をくれました。
 車椅子に乗ってゆっくりお店を回ったときのことです。その日は日曜日らしく混んでいました。私は、周囲のショップや天上の広さに興奮し、心弾ませながら車椅子を転がしていきます。だから、目の前のショップから通り過ぎようとしていた子供が飛び出してくるのが分からなかったのです。
 私の手は、強く手前に引っ張られました。私は、ビクッと体が震え車椅子にブレーキをかけました。その子供は、一瞬たじろぎましたが、すぐに何事も無かったかのように通り過ぎていきます。お母さんの手は強く私の手を握り締めたまま緩みません。「もう、よそ見しないの! 転倒したらどうするの?」そう私を叱咤します。力は緩みません。強く熱が伝わってきます。「ごめんなさい」一言そういって、私もおかあさんの手を強く握り返しました。
 私は泣きそうになりました。でも、泣きませんでした。私がお母さんに出来る事は笑顔だからです。その手の力強さと温もりの暖かさは、私に生きるということを許してくれたように思いました。それだけでも、私は産まれて良かった。と、思えるようにしてきました。
『ペタペタ』
 ゆっくりと、おかあさんのストッキングが私の方へ近づいてきます。人間の熱が伝わってきます。横たわっている私からは、膝から下の動作しか分からず、ただでさえ、夕日の濃い陰影に覆われているおかあさんの顔は見えません。まるで顔だけがブラックホールに飲み込まれたみたいです。それから私の目に見えたのは林檎を拾うお母さんの右手でした。買い物袋を持ち、冷蔵庫へと歩いていきます。 
 お母さんの等身大の姿が、漸く見ることが出来ました。冷蔵庫へ一つ一つ丁寧に野菜を入れていきます。私を抱き上げてくれるときにするお母さんの匂いが蘇ってきます。力が抜けたように心からほっとしたのが分かりました。さっきまでの恐怖が嘘みたいです。
 おかあさん。大丈夫です。さっきよりも、もっと楽になってきました。血もどうやら止まったみたいです。
 
 もうじき夕日が沈むからでしょうか?
 体が少し冷えてきているように思います。オレンジ色の夕日も段々と紫色に変わっていくのが分かります。影も薄く消えていきます。
「佳代、佳代」
 耳元でのおかあさんの声です。まだ、耳は機能している事が分かります。久しぶりの優しい大好きなおかあさんの声です。
「大丈夫? 大丈夫?」
 心配させてしまっている・・・なんとか、答えたいです。でも、もう空気を鳴らすことも精一杯の私は、「ヒュー」としか答えられません。でも、諦めたくはありません。諦めるのは誰だって出来るのだから・・・だから、もう少しだけ力を振り絞ります。
「ヒューー、ビューーー」
 さっきより、少し大きく音になりました。少し嬉しくなります。それから、何回か繰り返すのですが、一番良くて一度だけ「が
っ」と発せられたくらいでした。なんとかして、おかあさんを安心
させてあげたいのです。でも、声が出ません。もう音も出ません。
伝達の手段を失ってしまいました。私の流れた血液の上でおかあさ
んは膝をつき様子を伺っているように思います。
 私は、残っているあと人絞りのエネルギーを、顔を上げる事に使うことにします。体のほとんどはもう、私の意思から離れてしまっていますが、首から上だけはまだ、私のものだったのは幸いでした。
 ぐぐぐっと首を持ち上げ、天上にあるお母さんの方向へと顔を捻ります。あと少し・・・あと少し・・・。
 そうです。いつもやってきたことだもの。
「大丈夫」・・・この一言は言葉じゃなくても表現できるのです。私が、お母さんの為にできること。そう・・・笑顔で。
 顔だけは、血に濡れておらず醜くなくて良かったと思います。もうすっかり、紫色から藍色に染まり変わっていた空は、お母さんの顔のブラックホールを無くしてくれて、暗闇に慣れ始めた私の目に、久しぶりにこんなにも優しく綺麗なおかあさんの笑顔を見せてくれたのです。ああ・・・おかあさんが戻ってきた。心から私はそう思い喜ばしく思いました。もう、それだけで満足でした。私は完全に力尽き、何の受身もなく、ドン。と、床に落ちました。
 意識が私から離れていきます。

『ボーンボーンボーンボーンボーン』
 時計から時刻を告げる音が鳴りました。あの時は、この音がお母さんを迎えに告げた音でしたが、今度はなんだか私を迎えにきたように思います。近くにある電話口でおかあさんが、どうやら救急車を呼んでいるようです。でも、ニュアンスだけでうまく聞き取る事は出来ません。
 おかあさん。どうもありがとう。いままで、私を育ててくれて、愛してくれて、この世界に存在を持たせてくれて。こんな私だからこそ『人間』の現実を見ることが出来ました。笑顔にも細かく種類があることを知りました。眉一つ唇の上げ方一つで、大体の感情を読み取る事が出来るようになりました。それも、こんな私の特権なので長所と思うようにしてきました。だから、あのおかあさんの笑顔も、そのまま受け止めようと思います。おかあさん、そろそろ電気を点けたほうが良いかもしれません・・・もう真っ暗です。何も見えません。
  
 神様、見ていますか?
 私は、この17年の人生・・・貴方に頑張ったといってもらえるでしょうか・・・? もう笑わなくてもいいのでしょうか? 我慢しなくてもいいのでしょうか? 人の顔色を伺わなくてもいいのでしょうか? 前向きに生きる事を止めてもいいのでしょうか?
 遠くから救急車のサイレンが鳴っています。

神様、もう・・・いいでしょうか・・・?
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